妊娠から里帰り出産まで HOME > はじめての産婦人科 > 私の震災体験
妊娠とは関係ないのですが、こんな震災体験があった事を残しておこうと思います。 幸い、我家は家は建っており、家族も、家具に埋もれながら命に別状ありませんでした。 1995年1月17日午前5時46分。阪神・淡路大震災発生。 入社1年目の冬の出来事です。 連休明け、熟睡していた私はふとんの下から突き上げられるような衝撃で目が覚め、地震の少ない関西地方に住んできた私には、これが地震である事に気付くまで少し時間がかかったように思います。横揺れや縦揺れなど言われていましたが、寝転がっている状態で振りまわされている感覚ということだけ覚えています。 まだ揺れている中、とにかくふとんをかぶり続け、大量の本や何かが顔や体に落ちてきているのがわかり、ふとんがどんどん重たくなっていくのを感じました。ふとんの隙間から、ステレオが半分出ているのが見えたと同時に、下の階の母親が「○○生きてるか〜!」と子供達の名前を叫んでいるのが聞こえます。「生きてるから、ふとんに早くもぐって〜!」と叫びながら、何度か来た揺れが止まるのを待ちました。 少し揺れが止まり、兄弟の部屋へ行くと、勉強机の本棚部分のネジが外れ、ふっとんだようで、ちょうど本棚の90度の部分に体がすっぽりかぶさっていて、身動きが取れない状態でした。 前日・・・我家の休日はお鍋で、翌朝は決まって、おじやでした。居間では、昨晩のお鍋がそのまま食卓の上にあり、その上に食器棚がかぶさっている為、鍋の原形もなければ、床は食器の破片やお鍋のお汁が散乱しています。 また少しすると、家の外から我家の名前を叫ぶ近所の方の声が聞こえます。が、玄関では、金魚の水槽が割れ、大量の荷物が重なって、ドアが塞がるどころか、たどり着く事も出来ず、「大丈夫です!みんな生きてます!」という事だけを叫びました。 その後、とにかく玄関を開け、公衆電話に並びに行きました。この時は少し自宅の電話はまだ使えたようですが、とにかく外に出なくてはという気持ちでいっぱいでした。 勤めていた会社は神戸に本社のある医薬品関係の会社。 神戸はもちろん、近隣圏の病院は、たくさんの患者さんで溢れかえっていたと思います。 私の担当は、大阪の支店の経理系列で、直接医薬品を取り扱ったりしませんが、薬が病院へ運ばれていく以上、どれだけ建物が壊れていても、会社は確実に動いていました。 震災3日目・・・幸い、最寄の駅〜大阪駅まで電車が通ってたので、上司より連絡があり、しばらく大阪へ行くようにと指示がありました。 しばらくとはどのくらいかわかりません。自宅はまだ、水道、電気、ガス、普通に生活は出来ませんが、会社に通う以上、ましてや、大阪は普通に機能していると思ったので、ある程度の通勤服等を持って、大阪にある祖父の家へしばらくお世話になることにしました。 震災1週間・・・自宅最寄駅〜神戸までバスが出るようになります。上司より「何時間かかっても良いので、神戸まで通うように」 祖父の家から再び大荷物を持って再び、自宅へ帰ってきました。 翌日から、始発バスに数時間並び、電車なら15分のところを2時間〜3時間かけての通勤です。会社へ到着し、帰りのバスに並ぶ時間を考え2時間程度、仕事をして、お昼過ぎには帰ります。と言っても、家に着くのは、夜。 並んでいる間、バスに乗っている間、トイレへ行けないのが恐くて、半年以上の間、食べ物に含まれる水分以外を一切取らず、少し帰りが遅くなると、家まで辿りつかず、友達のいる避難所等に泊めてもらいました。 避難所からの通勤や、避難生活で亡くなってしまう家族の方、避難所の公民館のようなところで行うお葬式、いつ壊れるのかわからない建物での仕事、空気も悪く狭い空間でのインフルエンザ、仕事が忙しくストレスの溜まる社員達・・・今、本当にあったんだろうかというくらい、平常生活に戻っています。 いろんなことがありすぎて、今となっては過去の事だけど、決して忘れてはいけない、忘れる事の出来ない出来事です。 これだけが原因ではないかも知れませんが、少しはストレスの要素となったと思うのです。 |
はじめての産婦人科 へ戻る
HOME へ戻る